長浜ラーメン

2.3先の駅近くにある長浜ラーメンという赤暖簾が気になった。


もちろんそこは長浜ではないし、隣県の方が近い。いやもう隣県扱いしてますよ、たまに。結構な田舎。


ついに機会を得た僕は、すわ、とその赤暖簾を目指した牛である。


途中、海岸線を通るのだが陽射しが美しく大変気持ちの良い祝日であった。

左手には整骨院本日開院、本日のみ治療無料と手書きで書いてあり色々アウトな4坪ほどの丸太小屋が見えた。見てない。忘れよう。


目的の赤暖簾をくぐると、完璧だった。

テーブルにはもう10数年はその席に居座っていそうなおじいさん、打ちっ放しの床とカウンター、と昼なのになんか暗い店内。切り盛りしているおばさん3人。割と間を空けずに入ってくるお客さんなど。


セルフ・サービスの水を手に取ると横の漫画棚に目がいった。

火の鳥」が揃っている、いやいやラーメン片手にささっと読めるような漫画じゃないでしょこれ。


あれか?ラーメン道みたいなものがあって輪廻転生となんか関係あんのか?いや、ただそこにあるだけか。


ラーメンを頼もうとしたけれど、是非に、という具合に高菜ラーメンが推奨されていたのでそちらにした。


テーブルに座っていた小学生達の替え玉を呼ぶ声、世間は連休中なのです。


程なくして高菜ラーメンが届いた。

これは、、、とてつもなく臭い。

表面もラードの透明な層が分厚く横たわっている。


当たりだ!と思いました。

すみません、度が過ぎたものが好きなんです。とてつもなく辛いものや、強力なアルコール。ものすごく早い音楽や、ほとんど聞こえない声。あの、圧倒的に蹂躙される感じ。

もちろん普段からそれは選ばないが

ここにまたノックアウトされたい時の為の選択肢が増えたと思った。


勢いあまり、替え玉を頼んだが4分?くらい来なかった。手違いがあったので謝られた。ラーメンは冷めてしまったが別に良い。手違いも知ってたし。

会計の時に、実は高菜が足りなかったから50円マケますときた。

500円+替え玉100円で600円のはずだったがレジで別のおばちゃんに700円取られた。正規の値段より高くなった。なんかクラクラして、望みどおりノックアウトされた。





役割り。けど

大きくてキレイなものが見たい、と思い立ち、2人くらいで桜の名所を訪れた。隣県にあるそこはとても美しく圧倒的だそうだ。


道中、旧城下町によって名物のカレーパンを食べたり、まだ季節にない鮎の看板に思いを馳せた。早く六月になればいいなと思ったがそれでは桜が無くなってしまうのでお行儀良く、順に楽しもうと思います。

など。


もうここで良いではないか、と思うほどの咲き方をしていて僕は溜め息が出る程感動しました。


いえいえ、それはなりませぬ。私は行くのです。


途中幾度と無く素敵な風景に時間を奪われた。もしくは捧げた。


目的地に到着してみると断崖絶壁の麓の道路から見上げる格好で息を飲んだ。暴力的なまでに美しいのです。ずっと見上げていました。

多分口も開いてたと思う。よくわかんないけど何だか傷ついてしまって

オレは生涯、感傷的でいるんだなと思い知りました。

日本海VS太平洋2

もう自由でいるのもイヤになってきた。


街に行こうと思い、大きな駅に着いた。そこは昔、映画でみた事のあるロケ地だった。


揺らめき高く燃え上がる明かり、巨大な暴君、黒檀の様な肌と空を裂く光線がここをぶっ飛ばしたのだ。


そう言えばずっと何も食べていなかったので懐かしさも手伝い、冷凍みかんを食べた。選択ミスだったけど美味しかった。トゥー・マッチだよ君。


今までと逆の事をしようと思った。何が逆かわからなかったのでゲームセンターに行った。ゲームはしなかったが、良い感じに心がすさみを取り戻した。旅行に出た原動力を取り戻したのでまた、放浪まがいを続ける事にした。


やっと携帯電話を使う気になったので現地の知り合いに連絡をとって遊んでもらった。人が人を呼び3人でカラオケに行った。今までと逆?の事をやりたかったのでこの提案は大変嬉しかった。

夜も遅くなり泊めてくれそうだったが、解散して今度は公園のベンチで寝た。


何となく、明日帰ろうかなと思った。余り放浪的なものは好きでないし、下手だから。


午前中に銭湯を見つける事が出来たので利用したが何1つさっぱりしなかった。とても良い庶民的な銭湯。いつだって良くないのは俺のせいだ。それと銭湯の場所を教えてくれたおばあさんはとても親切でなんか心が晴れた。嬉しかった。とても感じの良いクソババアだった。


昨日の友達とまた少し会って話をし、帰る事を告げた俺は太平洋側の電車に出来るだけ遠回りして乗って家を目指した。造船所がオレを燃やした。


最終的に、僕が住む街へ時速300㎞で突き刺さった。


何も得ることが無く、何も失う事も捨てる事も出来ない、いつもの日常だった。どこでも良かったし多分家でもよかった。




日本海VS太平洋

どうでもよくなって外に出た。

いっそ車輪になってしまいたかったがそれで海を渡るのは辛いだろう。

なので電車に乗って海を渡った。


速さは関係ないので鈍行に乗り、一先ず本州を時計回りにする事として後は考えずにいた。途中で降りたり、旧武家屋敷を見て回ったが小さな堀に泳いでいた金魚しか覚えていない。


ふと思い出したけど以前、余り仲が良くない人と車中2人になりホントにどうでもよくなって「あ、あそこにUFO飛んでますよすごいですねー」と適当に言ってみたところ、ムスッとされてしまい、元の絶妙な雰囲気の悪さに戻った。なんだその態度は。UFOが飛んでなくてムスッとしたいのはこっちだ。

なぜ今思い出したのか。金魚とUFOは何かあるのか?ないよな。


松下村塾的な何かを拝み、駅=次へ向かった。どこへ行こうというのか。どこから来たというのだ。

 誰が愛を呼んだのだ。


車窓から見える日本海は暖かくなってきた頃でも威厳ある寒さを備えており、とても美しかった。ついぞ降りてやっと四畳半程の砂浜を探し出し居座ってみた。今や浜辺の民主的な王様となった僕は侵略する波を恐れ、亡命した。

大変にキレイな浜辺で、行かなければ良かった。見ているだけで良かった筈だ。

日も落ちて暗くなってきたので1日の終わりを考え始めた。時間を数学的に逆算してみたところ砂丘があったのでそこを目指す事にした。


最寄りの駅に最終電車近くで辿り着き、砂丘はどこか?と問いしところ、数多の売り子いうよう、西へ進め、さすれば辿りつかん。との応えにかたじけないと言い放ちその場を後にした。背後にはつむじ風が吹いている筈だった。


砂丘への道は徒歩では遠く、街灯もなく、トンネルもありちょっと大変だ。後で聞いた話だがちょっとした肝試しスポットだそうだ。こわくない?言ってくれよ。


有名な話だと思うけど砂丘はやはり砂だった。物凄く高低差もありなんだか危険な気もしたが今夜はここで眠ると決めたので寝袋をひいた。

砂の女」を少し思いだした。


目が慣れて、落ち着いてくると星は綺麗で砂もキラキラと光っており気分は良かった。横にはなったものの、眠れない。恐らく2時間くらいは物思いにふけっていた。やがて訪れる眠りの浅瀬まで。


目覚めてみると雨が降っていて辺りは泥になっていた。流石に狼狽した。大きな泥地の中にいたので何だか切なくなったが脱出する事を先にした。後で思ったが心だけ泥に沈めておけば良かった。


砂丘の入り口?の方に行くと偶然お祭りの準備がされており、バンド演奏もあるとの事で出演者名簿を見ると「砂嵐」と書いてあり、何だかとても情け無い気持ちになって砂丘を後にした。


大体、自然は嫌いだ。偉大なのはわかるが強過ぎる。ちょっとすればすぐ咳き込まされるし、何だか肌だってむず痒い。赤く腫れるのだ。


しかし、集団になった人間は更に恐ろしい。あの手この手で快適さを求める。同種であろうと、快適さの為に傷付け合う。私はそんな集団から離れ、個になろう。私1人で個にして全、ここで道を指し、示し、山を建てよ、石碑を掘れ、名を唱えよ!願い給え!諦め給え!私は我が足元へ身を投じ、我と我が身は召されるであろう!



数百キロ離れた人工の湾に移動し、そこらへんにあったビーチ・パラソルの下でくつろぎながら、以上のようにふざけて一人開眼した。皆さんもどうですか? レジャーとしての悟り、スポーティな開眼。何となく立法。しかしこの環境で悟りを開けるのであればそこら辺は仙人だらけである。仙人が千人いるのだ、いや、もういい。ホントいい。何だか砂嵐以上に情なくなってきた。


たかが数年、バンドをやっているだけの奴がどうした事か仙人気取りの時がある。何だオマエは。どこからその自信が生まれてくるのだ。ゲージツというのがそんなに尊いのか。尊いものの中にオマエはいるつもりなのか。


なぜ俺は海に3度も寄ったのか、またしても日が暮れて、河川へ行く事にした。水には変わりなかったけども。


その河川には中洲のようなものがあり、もうどうでも良くなった俺はザブザブと服を着たまま入って行き、中洲に砂だらけの寝袋を叩きつけ、寝そべってやった。流石に疲れがあり、眠るのは早かったようだ。だが、小1時間程で起きた。というか起きざるを得なかった。

目の前に大きな松明を燃やした船が火の粉を撒き散らし観光客を乗せて、鵜飼を見せているのであった。観光客どもは不意に中洲にいる僕の方を注視し、とてもバツが悪かった。

結局、ただの観光地なのに何だかヤケになって大きな気分で寝ていた僕はとても恥ずかしい気持ちだった。

不貞寝した。絶対にどきたくなかった。



続く、と思う。





赤橙夜想曲

縁があり、異国で3日間を演奏する事になった僕達6人は空港に集合した。

しっかり表現すると集合する約束はした。

 

その時の僕は小さなクセに大らかで

1時間遅れてしまい、大変に怒られたが間に合ったので良かった。

 

当時は国交もあやふやで日本の文化の紹介をマイルドに禁止しているような国に飛び降りたのである。何だか行ってはいけないところに着いたようで大変にエキゾチックだった。

 

エキゾチックといえば少し亜熱帯を想像するけど寒かった。でもエキゾチックだったのです。

 

空港の荷物受け取りの際、ベルトコンベアーに傾斜がついていて僕の楽器が50センチくらいロケットの要領で飛んでいくのを眺めた。今でも空港を利用すると思い出す記憶です。

 

首都に到着すると現地の日本人オーガナイザーに案内されて、1日目の会場へ向かった。

道中、舗装の乱れた道路や足のないホームレス?の露店商、山と積まれ、下の方が腐ったほうれん草などがあり、大変興味深かった。

確か、いくつかの屋台に入り早速酒を飲み始めた気がする。

大林宣彦的な表現だが、あの頃の我が胃袋を想うととても頼もしく、抱き締めてやりたいくらいである。

 

他にも数バンド、日本から来ていてその日は演奏もするが前夜祭の様な雰囲気。

何だか会場中が赤かった。某アングラ有名ドラマーのショウも楽しかった。ここで友人が現れた。

 

現地在住のこのアメリカ人2人はとても良いヤツで観光ビザで暮らしているもんだから切り替えの為にたまに日本に来て遊んで行くのである。

 

この、アジアに妙な敬意を捧げる(時々いますよね?祖国文化への反感からか、漢字の入れ墨を入れたり、和服を着て過ごす類の。)ナイスなアメ公達は自宅が近くだと言い、一度帰っては手料理を作り持って来て振舞ってくれた。1日目はつつがなく終了し、適当なビジネスホテルで眠る事が出来た。と思う、、忘れた。

 

2日目、日本から一緒にきた6人は昼は観光を楽しみ、人種としては嫌われていた様だが仕方ない様に?歓待してくれる屋台の人やお店で楽しんだ。この頃には多少必要な言語も覚え使っていたと思う。

 

というかどこに行っても、「ありがとう」が言えれば大丈夫だと思う。

そんな事ないけど。

 

2日目(もしかしたら3日目の事)はとても大きなクラブでリハが終わった段階で周囲に人も増えていて熱狂的な期待をさせるに充分であった。

驚きであったのだけれどそのクラブは土足禁止のフローリング。何と床暖房になっていたのでこの初冬の北緯37度にあるこの街でも充分に暖かかった。少しタイムスケジュールがタイトに出来ていたが、与えられた時間がある以上、引き締まった思いでビールを飲んでいた。(スミマセン)

 

この日の夜は前述のナイスなアメ公2人が是非みんな、うちに遊びに来てくれというが、異国情緒をしっかりと楽しみたいところもあったので、感謝も交え、その間を取り、僕だけ別行動で遊びに行った、、、ところが、、

 

前から少しわかっていたが少しヒッピー癖があり、遊びに行った部屋は綺麗だけど、(多分その場にいた女の子の家だろ、あれは)かなりグルーピーであった。

女の人達は大学生で、何にでも興味津々で聡明な感じもあった。

話したりして楽しかった。

この日は夜にも関わらず、その子達にひっきりなしに電話がかかって来たし電話を変わられた。日本人、というだけの事なのですが中には日本語を勉強しているので試したい、というだけの人もあったがとても上手で5分程は無理も無く会話出来た。

何というか皆物凄いエネルギーだった。

僕なんかは自分の出生だけで珍しがられチヤホヤされた格好で悔しいだけだった。何と無くその日の自分の役割はわかっていたのでその様にした。色々あってとても楽しかったが、皆を連れて来なくてよかった。

 

3日目(2日目かもしれない)はその新しい友達達と昼食をとり、また、文化的興味心の的となりかけたがもうリハーサルの時間が近付いていた。場所を告げ、道を訪ねるとわからないと言う。かなりヤバイ事だとわかり、何とか場所を探しだし時間がなかったので原付の2人乗りで会場に向かってもらった。異国情緒も何もない、高らかな太陽の下で赤信号?と歩道を駆使して会場入りした。

 

到着してみると何か不相応な随分立派なライブハウスで、PAマイケル・ジャクソンの様な話し方で面白かった。リハーサルが終わると外にかなりの列が出来ていた。3日間のクライマックスが迫って来ていた。会場はもういっぱいである。

このツアーのtepPohseenは共演のアクシデンツからドラムスに清水君とベースに純子を擁した4人編成、この日は一曲15分の「常緑樹」だけを演奏した。全部を使い、物凄い演奏だったといえる。会場は湧き上がって外に出るのも一苦労で沢山の人達が付いてきてくれて握手だのサインだのをした。

音源も沢山もらった。

 

しかし1番のクライマックスはこの後だった。やっと現地ミュージシャン達と交流を持てる日になり、一緒に打ち上げに向かった。途中、衝動に駆られたのか感傷的になっていたのか、それとも僕達全員の気持ちを代弁しようとしたのか、

キレてしまった純子が無関係の「走っている」タクシーに現地の言葉で「ありがとうございます!」と叫びながら飛び蹴りをしてしまった。

走り去っていくタクシーに僕達はビックリもしたが大笑いもした。

 

あれ程英雄的な飛び蹴りは見た事無かったし、今も無い。

 

純子はその後、5メートルはあるかという様な風船の看板も倒してしまった。

 

店に入るともうみんな面白過ぎて、色々聞かれたし、こっちも色々聞いた。全てが同じ価値観の異文化の交流だった。現地の酒は我々が普段飲むよりもアルコールが薄く、我々は潰れずに飲み続けた。話相手は一旦潰れていくのだが、幾度と無く蘇ってきた。もうすぐ現地音楽界隈のボスが来ます、という事で待っていると、とてもナイスな人であったがやはり30分程で潰れた。みんな笑っていた。ボス、というよりも皆に愛されてる人なんだなと思った。

 

別テーブルが爆発した様な騒ぎになっていたので行ってみるとやはり中心は純子だった。

休業中の向かいにある店の生け簀から手掴みで海老を取って来て、自分のテーブルの鉄板で焼いていた。皆に拝まれていた。

 

そのまま2次会に行くと登ったのか降りたのかよくわからない店で食べた事もない様な美味しい鍋を食べさせてもらった。

その後、どこに泊まってどうやって帰ったのかは覚えていない。