昔のお話だよ

気が付いたら普通に皆が持っている物は何も持っていなかった。

 

将来の事も考えてなかったし高給で働く事についても一生懸命になれない。

 

ただただCDやカセットが毎日増えていき、機材を繋げるコードの大群が何かよくわからないものになってきていた。

朝起きたら首に絡まっていることもあったし髪の毛が伸びていた時はMIDIケーブルで結んでいる事もあった。いや、シールドだったかな。わからない。

 

まあみんなもやっていたと思うけど

自作の音源を勝手に店先に置いて帰る他にやりたい事がなかった。

 

いや、やりたい事はあった。一生に一度でいいからライブがしたい!と思っていた。

バンドなんてしたことなかったし(ギターはどういうシステムで外のスピーカーから音を出してるのか知らなかったがマイクで拾うんだよ、と聞いた時はなんかガッカリした。今はウットリしている)

まずその様な友達がいなかった。

どうやればいいのかわからなかった。コラージュ、ノイズから少し離れ、ギターを好きになり始めた時期だったので1人でライブなんて全くよくわからないものになるのが目に見えていたし、何より引っ込み思案だった。それでも一度でいいからライブがしたい。

 

といったわけでライブをする為にまず学校を辞めた。

 

そのままフガジのライブで知り合った数少ない友人である山口卓也に自分の音源を渡しグループを作ろうと持ち掛けた。バンドをしよう、とかバンドを組むという言葉が嫌いだったのでとにかくその様に話した。

 

山口さんは快諾してくれてその日の夜はジンに砂糖を入れた何だかよくわからないもので祝杯を挙げ、次の日に死んだ。そんな飲み方などない。物凄い胸焼けだったけど嬉しくてしょうがなかった。

 

2人でスタジオに入ると録音とCD自主制作の広告が貼ってあったので電話で話しを聞いてみた。

 

曲なんて一曲も無かったが8曲録りたいと告げるとレコーディング込みで10万だと言われ俺は2週間日雇いのアルバイトに行った。

 

レコーディングとCDR30枚製作の値段が10万。当時はCDRライターがご家庭に普及していなかったので丸い銀盤、というだけで有難かったのです。

 

とまれ、スケートリンク作製のアルバイトから戻った僕は(今気付いたけどこれも銀盤ですね)録音の予約を取り付けその日を待つ事とした。

 

その際に僕たち2人には名前が必要となったが自分に名前を付けるなんて真っ平ゴメンだったのでコックリさんでバンド名を決めた。それでテッポーシンという名前になった。

今思えば西洋式のヤツにしておけばアルファベットのかっこいい名前になれたかもしれない。

 

レコーディングの日を迎えた朝、録音してくれるエンジニアに実は曲なんかない事、楽器がほとんど弾けない事を告げると随分面白がってくれた。

 

適当な演奏やエフェクターを踏んで英語風な歌をつけて歌ったりした。

持っていったギターは友達が作ってニスを塗ったものでいつも接触不良だった。

 

ミックス作業にすぐ取り掛かってエンジニアの人の提案を全て受け入れた。レコードのポップノイズを入れてくれたりして面白かった。

 

エンジニアの人は料金値下げするよ

と言ってくれたが僕の今までのイリーガルでアウトな生活の中から「正規」だの「正統」に物事を終える、という事へのチャレンジな感じがあったので反対にビタ一文マケさせなかった。

 

そして製作された30枚のCDRには実は行き先が全くないという事実でまたかなり笑ってもらい、1つ思い当たる事があるからと後日になって福岡のレーベル、「ヘッドエイクサウンズ」の吉田さんを紹介してもらった。

 

パニックスマイルの名前は知っていたが山口さんしかパニックスマイルを見た事が無かったので音源を聴かせてもらって感動した。こんなの福岡にあったんだと思った。本とライナーノーツでしか好きな音楽を探してなかったので探せてなかった。

 

約束を取り付けて吉田さんに会いに行くと正直困っていた。忙しいので取扱えない、という雰囲気があったがこちらとしてはここで止まるわけに行かなかった。

 

僕はひねくれもので知られて?いますがこの時初めて他人に本当の心の内を話した気がします。その、今も覚えている言葉を話すと吉田さんから「出しましょう」と一言が出てすごく嬉しかった。

勝手に作ってきたCDR30枚はすでに僕が絵の具でグチャグチャにしていましたがヘッドエイクでパッケージをやり直して頂き発売の運びとなった。

 

要は、ライブをした事も予定もなくCDが発売という状態になった。

1998年の事。

 

※この様なやり方は一切通用しません  し参考になりません。