ノスタルジックとは。
とにかく自分の心を乗り越えなければダメだ
色々な過去に引きずられない様にしないと。
そしてそれはとても難しい事なんですね。40年かけて積もったものはいらないからって振り払えない。
僕の嫌いな言葉と姿勢に「ノスタルジック」という言葉があります。
一般的な意味は過去を懐かしむ、懐古的というような意味だと思います。昔はよかった、だとか。
先日、機会があり「ノスタルジック」という言葉の意味を調べ直したところ、「失ったものが美しくみえる事、失くしたものを愛おしむ事」
というような記載がありました。
結果、僕は自らが嫌いなものになっていたのですね。
どうにかして前を向いて歩かないと
生きている意味がないし、音楽をしている意義もない。
2017.11.24 難波ベアーズ
前日。福岡、夜中のスタジオにてjenのワウを踏み抜いてしまい家に帰ってからの修理に気が重くなる。
朝6時起きでどれ程休めるのか。
家に着いて合う部品を探すもサイズか合わないので断念。
お休みしていたジムダンロップのワウに交代。何とかなるものです。
新幹線にて大阪着、軽くご飯を食べてスタジオパズルにて3時間練習。
のち、難波ベアーズへ。黒瀬さんはじめ共演の方々も顔が見え始め、リハーサルも問題無くいつも通り。
この日は初お披露目の新曲2曲も演奏。守らず攻める冒険心と前進する心は大事。ホントの意味で言うとそれは本当に大変な事なのですけども。
リハーサル終わり、須原さん達と蕎麦屋へ。今日の僕は一日中何か食べています。
開場、久しぶりの方々や黒岩さんと談笑。
1番目はいかめがねすーすー。
一昨年から急速に知り合い、色々と気にかけてくれる方々。とても低姿勢でやはりこちらが恐れ入ってしまうのですが、リスナーとしての耳は広く、油断は出来ませんがそれは御人格の話。
演奏は今回からシンセが入り5人編成。シャッグスやレインコーツが例えでは伝えやすいですが違和感はあります。思うに、、、演奏力がそれに近しいと言うだけで曲自体に色々な要素が入ってます。その先も聴いていきたい、と思う様な素晴らしいライブでした。
2番目、須原敬三+秋葉慎一郎+澤野祥三
関西でも名前が通っている方々の即興とカバーの演奏。
澤野さんのギターが好き過ぎて、まいりました。歌う須原さんも久しぶり過ぎて何だかたまには福岡でも歌えば良いのにな、と思いました。
須原さんとは何なのか、また後日に。
3番目oopnum、重力がスゴかった。ものすごい質量の音を持たされましたが美しい旋律の様でもありました。
上田さんが話かけてくれたので福岡にも来てもらえると思います。密笑と是非やってもらいたいと思います。
4番目tepPohseen
最初から新曲2曲、「情景」「黄燐の鳥」
間違いも多々ありましたがやりたい事に向かう事が大事なので嬉しい。
続く「ろ過」のあとに機材トラブル発生で5分程お休み。ハイハットのペダル不具合発生。こんな事を言うと怒られそうですがトラブルは全く気になりませんでした。
次の曲を待ってくれる人々。
のち、アンコール含め3曲を演奏。
とてもありがたい気持ちをたくさん頂き、夜に沈んで行く。
のち、ヘラバラウンジで演奏する約束やLLRRと福岡で共演したい話など。本当に嬉しい、ありがとうという1日。
次の日は帰ってしまった小貫さん以外、須原さんとスパイスカリー「て」に行きました。変わったカレーが多い上に美味しい。初めての味覚など。
お店の方が埋火の大ファン、という事で、見ていてこっちまで幸せになる様な朗らかさだった。
たくさんの約束を持ってまた福岡へ
黄燐の鳥 歌詞
銀色の吐息よ、輝く森に降れ
凍てつく宝冠を私に届けて
哀しみが窓を叩く、返事をしてしまおうかしら
樹の無い森へ
運ぶ事、伴う事は白く私の下から飛び立つ
息が切れる様な愛を
鳥たち、私から空を滅ぼせ
見えるものなんか何も無い
心を忘れた私は
失う事だけを満たして
ストラトにした時の話
念願叶い、月に一度はライブをするようになった頃。
昔のお話だよ
気が付いたら普通に皆が持っている物は何も持っていなかった。
将来の事も考えてなかったし高給で働く事についても一生懸命になれない。
ただただCDやカセットが毎日増えていき、機材を繋げるコードの大群が何かよくわからないものになってきていた。
朝起きたら首に絡まっていることもあったし髪の毛が伸びていた時はMIDIケーブルで結んでいる事もあった。いや、シールドだったかな。わからない。
まあみんなもやっていたと思うけど
自作の音源を勝手に店先に置いて帰る他にやりたい事がなかった。
いや、やりたい事はあった。一生に一度でいいからライブがしたい!と思っていた。
バンドなんてしたことなかったし(ギターはどういうシステムで外のスピーカーから音を出してるのか知らなかったがマイクで拾うんだよ、と聞いた時はなんかガッカリした。今はウットリしている)
まずその様な友達がいなかった。
どうやればいいのかわからなかった。コラージュ、ノイズから少し離れ、ギターを好きになり始めた時期だったので1人でライブなんて全くよくわからないものになるのが目に見えていたし、何より引っ込み思案だった。それでも一度でいいからライブがしたい。
といったわけでライブをする為にまず学校を辞めた。
そのままフガジのライブで知り合った数少ない友人である山口卓也に自分の音源を渡しグループを作ろうと持ち掛けた。バンドをしよう、とかバンドを組むという言葉が嫌いだったのでとにかくその様に話した。
山口さんは快諾してくれてその日の夜はジンに砂糖を入れた何だかよくわからないもので祝杯を挙げ、次の日に死んだ。そんな飲み方などない。物凄い胸焼けだったけど嬉しくてしょうがなかった。
2人でスタジオに入ると録音とCD自主制作の広告が貼ってあったので電話で話しを聞いてみた。
曲なんて一曲も無かったが8曲録りたいと告げるとレコーディング込みで10万だと言われ俺は2週間日雇いのアルバイトに行った。
レコーディングとCDR30枚製作の値段が10万。当時はCDRライターがご家庭に普及していなかったので丸い銀盤、というだけで有難かったのです。
とまれ、スケートリンク作製のアルバイトから戻った僕は(今気付いたけどこれも銀盤ですね)録音の予約を取り付けその日を待つ事とした。
その際に僕たち2人には名前が必要となったが自分に名前を付けるなんて真っ平ゴメンだったのでコックリさんでバンド名を決めた。それでテッポーシンという名前になった。
今思えば西洋式のヤツにしておけばアルファベットのかっこいい名前になれたかもしれない。
レコーディングの日を迎えた朝、録音してくれるエンジニアに実は曲なんかない事、楽器がほとんど弾けない事を告げると随分面白がってくれた。
適当な演奏やエフェクターを踏んで英語風な歌をつけて歌ったりした。
持っていったギターは友達が作ってニスを塗ったものでいつも接触不良だった。
ミックス作業にすぐ取り掛かってエンジニアの人の提案を全て受け入れた。レコードのポップノイズを入れてくれたりして面白かった。
エンジニアの人は料金値下げするよ
と言ってくれたが僕の今までのイリーガルでアウトな生活の中から「正規」だの「正統」に物事を終える、という事へのチャレンジな感じがあったので反対にビタ一文マケさせなかった。
そして製作された30枚のCDRには実は行き先が全くないという事実でまたかなり笑ってもらい、1つ思い当たる事があるからと後日になって福岡のレーベル、「ヘッドエイクサウンズ」の吉田さんを紹介してもらった。
パニックスマイルの名前は知っていたが山口さんしかパニックスマイルを見た事が無かったので音源を聴かせてもらって感動した。こんなの福岡にあったんだと思った。本とライナーノーツでしか好きな音楽を探してなかったので探せてなかった。
約束を取り付けて吉田さんに会いに行くと正直困っていた。忙しいので取扱えない、という雰囲気があったがこちらとしてはここで止まるわけに行かなかった。
僕はひねくれもので知られて?いますがこの時初めて他人に本当の心の内を話した気がします。その、今も覚えている言葉を話すと吉田さんから「出しましょう」と一言が出てすごく嬉しかった。
勝手に作ってきたCDR30枚はすでに僕が絵の具でグチャグチャにしていましたがヘッドエイクでパッケージをやり直して頂き発売の運びとなった。
要は、ライブをした事も予定もなくCDが発売という状態になった。
1998年の事。
※この様なやり方は一切通用しません し参考になりません。